Feather(日本語版)冒頭

飲みかけのティーカップの液面が弧を描いている。

「きっとまた忙しくなるわね」

母はそう言うとテーブルを離れ、キッチンへ向かった。

最近、森の鳥が騒がしい。シジュウカラはいつも何かを優しく問いかけるように鳴くのだけれど、今日は突き上げるような哭き声が聞こえてくる。

シゲルは学校帰りにカフェスタンドで買ってきたクッキーを頬張りながら、こんどの夏休みの自由研究は地震にしようかと考え、即座に取り消した。父の仏頂面を思い出すと、父の仕事と同じことを研究内容にするのは気がひけた。

シゲルがベルギーのブリュッセルにある中学校に転校してきたのは、一昨年の春だった。父は量子論の研究者で半官民の研究所に勤めていたのが、どういうわけかベルギーの国立地質学調査所へ転勤となった。ちょうど小学校卒業前だったので、ブリュッセルの学校で中高一貫のインターナショナル・スクールに入れようということで、一家の引っ越しとともに東京の稲城からそそくさと転校した。

全く準備期間がなかったものの、授業はオランダ語やフランス語ではなくて英語ということだったし、4歳から6歳まで父の出張でチューリヒにいた経験が手伝って、ひとまずコミュニケーションのロスはなく入学できたのだった。

「ごちそうさま。もっとのんびりできると思ってたよ」

シゲルは玄関脇にかけてあったジェットキャップをわしづかみにして、ちょっと出掛けてくる、と母の返事を待たずに外に出た。今日はクラスメイトとディスカッションをすることになっている。明後日から夏休みということで研究テーマ決めだの、何して遊ぶだの、という話らしい。リーダーのクララから召集がかかっていた。

メンバーは皆、家が離れているので、こういうときはブリュッセル・シティのカフェ、ル・パン・コティデイアン集合と決まっている。バスで15分かけて到着すると、既に全員がそろっていた。

「あんたいつものんびりだね。まあ、遅刻してないからいいけどさ」

クララにそう言われて、みんな学校帰りのままだなと思いつつも、言い訳も手間なので、荷物を席に置いてからカウンターでホットミルクを買ってきて、テーブルの最後の空席に腰を下ろした。

するとすぐに、この店に懐いているブリティッシュ・ショートヘアのロンダが、膝の上に飛び乗ってくる。ロンダを軽く撫でてあげながら、一息ついて店内を見回す。休み前の夕方とあって、小中高大問わず、近辺の学生連中でごったがえしていた。あちこちのテーブルで、シゲル達と同じようなグループがいくつもできている。中には見たことのある、同じ学校の顔ぶれも何人か混じっているようだった。

膝元でロンダがにゃあ、と甘い声を上げた。お腹を空かせているのかもしれない。シゲルはミルクを人差し指で一なでしてから、ロンダに差し出した。ロンダはそれを、ぺろぺろと吸い付くように、なめ始める。

「んで。今年はどんな計画が?」

マルセルが半ばぶっきらぼうに、半ば興味本位で皆に問いかける。

「自分のこともしたいから、簡単なのにしてよねえ」

アウリは参加してはいるものの、完全に他人まかせだ。

クララから昨年聞いた話では、シゲルたちが通っているヒルデ外国人学校では、夏休みの自由研究は伝統的にチーム単位で行われるらしい。担任教師からそういう特別な指示はないものの、生徒は毎年そのルールで研究を行っている。シゲルのAクラスは30人いるが、そのうちの6人がクララのチームに集まっていた。

「うちのパパんところで、研修してみないかって話」

ラズベリージュースにふんだんに埋まった氷をクラッシュさせながら、さっきまでシゲルの隣でロンダにちょっかいを出していたアルシェが、ボソリとつぶやく。

「ああ、アルシェのところは、自動車工場だっけ?」

「自動車部品メーカーね。電気自動車の部品」

クララの安易な問いかけに、部品と本体は大違いと言いたげに、憮然とアルシェが応じる。

「新型EVの製品プロトタイプで遊ばせてくれるってか。オモロそうだな!」
「うん百万ユーロもするの、パパが触らせるわけないでしょ。座学とサブパーツの工程実習がいいとこ」
バドの、やおらな興味に、真剣にアルシェが反撃する。
ヒルデ校はベルギーでは一・二を争うと言われる、教育水準の高いインターナショナル・スクールだ。学生には政治家や大企業経営者の子息が多く、卒業生はアイビー・リーグなど名門校に進学するものが多かった。シゲルは自分がここの生徒であることに時折違和感を覚えつつも、成績が良かったのが助けになって、劣等感のようなものはなかった。
「サブパーツでも触らせてもらえるなら、研究材料としては申し分ないんじゃない? 工場運営とか企業経営の勉強にもなるだろうし」

シゲルは、企業研究を兼ねて電気自動車のしくみを知るいい機会だな、と思った。父は出張ばかりだし、家族でどこかへ行く機会もあまり取れなそうだから、本腰を入れてチームで大きな研究に取り組む、というのは大歓迎な発想だった。
「というシゲルのご意見だけど、皆さんどうかしら?」
クララがまとめにかかったところで、
「優れた代替案もなけりゃ、その計画でGOだな」
空になったカフェオレのグラスを指ではじき、マルセルが皆を見回しながら決めつけたその時、シゲル達の二年次は終わり、かわりに途方もなく長い夏が始まった。

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